Love Potion

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 店内にいた店員や客同様、怜と慶は驚いて突然声をかけてきた男を見た。

 そこにいたのは、硬そうな短い髪に濃い灰色のスーツをきっちりと着込んだ男だった。
 そのスーツの胸ポケットには、レボのサングラスが無造作に差し込まれている。
 年齢は50代半ばくらいだろうか ―― 痩せ型だったが、貧相な印象はない。
 口元には鷹揚そうな微笑みが浮かべてられていたが、どこか油断ならない、狡猾そうな目つきをした男だ、と怜は思った。

 怜はその男を知らなかったが、その男を見た瞬間、慶の表情が一変した。

「・・・、・・・五木・・・」
 と、慶は呻くように言った。

 慶に五木と呼ばれた男は立ち上がり、怜と慶が座っているテーブルの脇に立った。

「あんた、検察のエリートだったよな。顔を見たことがあるぜ。
 恐らく“お勉強”は相当出来るんだろうが、察しが悪いようだから教えてやる ―― あのな、ここにいるあんたの弟は、あんたに龍二郎のことは何一つ教える気はないって、言ってんだよ」
「・・・っ、怜、さっき一人だって言っていただろう!こんな男がついているのなら ―― 」
「おい、誤解すんじゃねぇよ」
 慶が憤りの気配を滲ませて怜を詰ろうとするのを、五木が手を振って止めた。
「俺が佐伯の関係者の目付け役なんかするかよ、冗談じゃねぇ。さっきそこで偶然あんたらを見かけて、なんかあるのかとついて来てみただけだ。またスパイでも送り込んできてるのかと思ってな ―― 疑われる心当たりはあるよな、あぁ?」

 最後、低い声で五木は言った。
 慶の周りを取り巻く温度が冷えてゆくのが、目に見えるようだった。

 慶は荒々しく立ち上がり ―― 怯むような様子を、見せないようにするためだったのかもしれない ―― 怜に厳しい一瞥を投げかけて、立ち上がったのと同様のやり方で立ち去ってゆく。

 そんな兄の後ろ姿を見送ってため息をついた怜の前に、五木は断ることなく、腰を下ろす。

 顔は知らなかったが、五木という男の名を、怜は龍二郎から何度か聞いた記憶があった。
 詳しいことは知らないが、その口調から龍二郎が五木をよく思っていないことも、察していた。

 だが一応助けて貰ったのは間違いないので、怜は言う、「・・・ありがとうございました」
 少し離れた場所にいるウェイターにコーヒー、と注文してから五木は言う、「いいや」

 そして首の後ろに右手をあてがい、こきこきと首を回しながら、五木は続ける。

「ああいう輩にはあんたがやってた通り、煙に巻くようなやり方が得策だとは思うが ―― 永遠に終わらなそうだったから、声をかけた。余計なお節介だったか」
「いえ・・・、内心困っていたので、助かりました。あれでもう、俺には声をかけてこないと思いますし」
「ま、そうかもな ―― でさ、ものはついでと言っちゃあなんだが、俺もあんたに聞きたいことがあったんだ」  と、五木は言った。
「・・・なんでしょう」
 と、怜は ―― これではなんだか、やっと罠から逃れたところをすぐ別の罠にかかったみたいだな、と思いながら ―― 言った。
「あのさ、あいつ ―― 佐伯はさ、あんたの恋人なんだって?つまりあいつ、ゲイな訳?」
 と、五木は底に嘲りめいた笑いを含んだ言い方で、訊いた。
「 ―― ・・・さぁ?違うと思いますけど」
 と、怜は答えた。

 嘘をついている気は、怜には微塵もなかった。
 そもそも龍二郎が自分とこんな関係になっているのは相当イレギュラーなことであるのだと、怜は誰よりも一番よく知っていた。

 前に会ったマイコだけでなく、龍二郎と一緒に街を歩いていると、本当によく女性に声をかけられた。
 その殆どが玄人であろうという雰囲気で、マイコ流に言うと龍二郎とは“シリアイ”なのだろう。
 つまりどう考えても龍二郎は“女好き”なのであって、“男好き”ではないのだ。

 そんな怜の裏表のないはっきりきっぱりとした返答に、五木は唇を歪める。

「そっか・・・いや、あいつが自分のマンションの一つにあんたを住まわせてるって聞いて、面白がってそんな噂をする奴がいてな ―― 龍二郎は鼻で笑って相手にしねぇし、そもそもあんな女好きな奴がそんな筈はねぇだろうと、俺は思ってたんだ。
 や、変なこと訊いて、悪かったな」
 と、五木は怜に向かって頭を下げた。
「いいえ、別に」
 と、怜は言った。
「じゃあ歌舞伎町で刺されて佐伯に拾われて、そのまま居候してる ―― って感じか」
 と、五木は重ねて訊いた。

 龍二郎がそういうことを五木に直接話すことはないだろうから(たぶん)、恐らく五木が独自に調べたのあろう。

 龍二郎とは折り合いがいいとは言えないらしい五木に、何をどこまで話していいものか ――――

 一瞬の半分ほど悩んだ怜だったが、ここで自分が嘘をついてみても、どうしようもないだろうと思った。
 それに先ほど五木は何の躊躇いもなく、怜に向かって頭を下げた。
 何の関係もない若造(五木からみれば、怜はそう見えるに違いない)に向かって、あんなふうにさっと頭を下げられる人間はあまりいないだろう、と怜は思う。
 特に自分は五木が所属する組織の宿敵のような一族の関係者で、更に微妙に敵対している部分があるらしい、龍二郎側の人間なのだ。

 そんなに悪い人ではないのかもしれないな、と怜は考えた。
 むろん一から十まで良い人という訳でもないのだろうが、それは当然、五木に限ったことではない。

 龍二郎さんとは反りが合わない、というところなのかもしれない。と怜は思い ―― 思いながら、頷く。

「はい。事情があって家に帰れないと言ったら、使っていなかったマンションを使っていいと言われて・・・そのまま好意に甘えている感じなんです」
「ふぅん。佐伯は妙に甘いところがあるからな。ま、当の本人がいいって言ってんだ、甘えられるうちは甘えとけばいいさ」

 五木は言って顔の右半分を歪めるようにして笑った。

 その後は慶や龍二郎の話をすることもなく、30分ばかり他愛ない会話を交わしてから、2人は店を後にした。
 慶は支払いをしていかなかったので怜は会計は自分がすると主張したのだが、それを無視して五木が強引に3人分の会計を済ませた。

「本当にすみませんでした。何から何まで」
 と、店を出たところで、怜は言った。
「このくらいのことで礼を言われてもこそばゆいぜ ―― んじゃな」
 と、無造作に右手を上げた五木が、そのまま踵を返そうとした、その時。

 怜と五木が立つ歩道の脇に、黒塗りのメルセデスが音もなくやってきて、停まった。