Love Potion

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 その日は週末であったため道路はそれなりに混雑していたが、車は10分もかからずに芳賀組の組事務所に到着した。

 五木に着いたと言われて車から降りた怜は内心、酷く意外だと思う。
 芳賀組の事務所に来るのはこれが初めてであったが、“暴力団の組事務所”というものは、重苦しい雰囲気漂う日本家屋的なものなのだろうと想像していたのだ。

 だが芳賀組の組事務所だというビルは、きらびやかとまではいかないものの至って普通の ―― 普通よりはずっと小綺麗な ―― ガラス張りのビルであった。
 五木に連れて来られて、ここがそうだと言われなければ、ヤクザの事務所だなどとは絶対に思わないだろう。

 思わず怜が思ったままを言うと五木は苦笑し、“そりゃ映画やドラマの見すぎだ、昔はともかく今の極道の組事務所は大体のところがこんなもんだ”と、言った。
 そういうものなんですか。と感心する怜を促して、五木はビルの裏手から足早に事務所内に入ってゆく。
 そしてその足で怜を2階の奥の部屋に通し、“まだ時間に余裕があるから、ここで少し待っていてくれ”と言い残して部屋を出て行ってしまう。
 そんな五木と入れ替わるように事務員らしき女性がお茶とお菓子を持ってきてくれたが、それ以降、部屋には誰も来ない。

 最初は座って待っていたのだが、やがて怜は暇に任せて部屋のあちこちの調度品を見たり、スモークのかかった窓から外を眺めてみたりしていた。
 なんだか妙なことになっちゃったな。と多少困惑してはいたものの、これまで全く見えなかった龍二郎の一部分を見ている気がして、楽しくもあった。

 そう、龍二郎は自分の仕事に関して、怜には一切合切、話そうとしなかった。
 もう1年以上一緒に暮らしているというのに、ただの一度も ―― である。

 むろん、話されても分からないだろう。
 話されても困る部分も、あるかもしれない。
 中には難しい問題があって、簡単に他人に話す訳にはいかないことも、想像は出来る ―― それが一般企業におけるおざなりの守秘義務などとは、比べものにならないのであろうことも。
 相手が極道であろうがなかろうが、仕事の話を細かく聞きたいとも思わないし、何でも洗いざらい話して欲しいなどとも、思いはしない。

 しかし“今日は忙しかった”とか何とか ―― “仕事先でムカつく奴がいてさ”とか、そういう愚痴めいたことすら殆ど話してくれないのは、やはり根本的に信用されていないからなのだろうかとは、考えてしまう怜なのだ。
 結局自分は警察やら検察に近いところに血縁を持つ人間だから、完全に信じてもらうことなど不可能なのかもしれない、などと。

 物心ついたころから怜は、自分が家族とどこかが、何かが、決定的に違うような気がしていた。
 小さい頃はそれほど気にしなかったが、その違和感が徐々に大きくなるにつれ、本当に悩んだものだ。

 家族のことをそんな風に思うなんて、自分は頭がおかしいのではないかとすら、思ったこともある。
 その違和感を埋めようと、必死の努力をしてみたこともある。

 だがやがて、それが決して埋められない溝であると理解したからこそ、数年前に家出をしたのだが ―― 先ほど兄と差し向かいで話をしてみて、怜はその違和感の理由を今更ながらに理解したように思った。

 兄を含む家族と自分は、世に言う価値観というものが見事なまでに真逆なのだ。

 例えば今日、あの喫茶店での会話の中で慶は、龍二郎を頭の悪い男であると信じきっているというような言い方をしていた。
 だがそれは絶対に違うと怜は思っていた ―― 好きな相手のことだからそう思う部分もあるかもしれないが、それだけでは決してない(と、思う)。

 龍二郎は怜が言うことで理解出来ないことや知らないことがあればきちんと分からないと言い、はっきりと理解出来るまで適当に流してしまうことがなかった。
 そして一度説明されたことは、二度と訊くことはなかった。

 本当に頭がいいということは、そういうことだ。と怜は思う。
 知らないことをいかにも知っている風に話したり、分からないことを分かった振りで誤魔化したりする行為こそが、頭の悪い人間の行動なのだ。
 ましてやどこの学校を出たとか、今どこに勤めているとか、そういうことは個人の、本当の意味での頭の良さには、あまり関係がないのだ。

 それにそもそも、1年以上ぶりに会った弟の居場所も尋ねない家族に、龍二郎のことを教える気など、怜にはさらさらなかった。
 兄にだけでなく、例え父が来て尋ねたとしても、絶対に何も話したりしない・・・ ――――

 窓から見える新宿の雑踏を見下ろしながら、怜が揺るぎなくそう考えた時。

 静まり返っていた廊下から、幾人かの人の足音と話し声が、入り交じるように聞こえて来た。
 五木が戻って来たのだろうかと、怜が振り返って部屋のドアを見たのと同時に、それが荒々しく開かれる。

 そこから部屋に入ってきたのは五木ではなく、今の今考えていた、龍二郎その人であった。

 まさかここで龍二郎と顔を合わせることになるとは思わなかった怜は驚き ―― 五木は龍二郎が今日は事務所に戻る予定になっていないと言っていたのだ ―― 窓ガラスについた手を引き、窓辺から離れる。

 龍二郎はそんな怜の前にきっちり5歩でやって来て ―― 怜が何かを言うよりも先に、その頬を平手で叩いた。