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頬を打つ乾いた音がして、怜は呆然とその場に立ち竦む。
痛くはなかった。
そんなに強い力ではなかった ―― 叩かれた瞬間、怜の身体がぐらついたが、それは痛さや叩かれた衝撃によるものというより、龍二郎に手を上げられたという精神的なショックによるものだった。
それにもし龍二郎が手加減なしの本気で殴っていたら、怜など部屋の隅までふっとんでいただろう。
誤解から怜を追い出したあの一件以来、龍二郎は怜が多少の我儘を言っても、怒ったりはしなかった。
一緒に暮らす中で喧嘩をすることは幾度かあったが、そんな時でも龍二郎に手を上げられたことはなかったし、その気配を感じたことすらない。
それがこんな風に、出会い頭という状態で叩かれるなど、怜は想像すらしていなかったのだ。
「・・・お前、自分が何をしようとしているのか、分かってんのか」
中くらいの沈黙を破って、龍二郎が低い声で言った。
平坦な声だったが、底に明らかな怒りが淀んでいる声だった。
その問いに対して、怜は答えられない。
舌が凍り付いたようになっていて、瞬きすら出来なかった。
「俺たちの生業について必要以上の事を知ってしまったら、ましてや実際動いてしまったりしたら、二度と後戻りは出来ない。その一歩を踏み出したら最後、何もかもがそこで終っちまう ―― お前をこんな世界に、引きずりこみたくねぇ」
と、最後呻くように、龍二郎は言った。
「 ―― ごめんなさい、・・・」
と、怜が小さな声で言った。
龍二郎は微かに顔を歪め、叩かれた頬を確かめるように押さえながら固い声で謝る怜から視線を外し、
「・・・まぁ ―― お前を手元に置いて離せないでいる俺がこんなことを言っても、説得力ねぇよな・・・」
と、自嘲気味にひとりごちる。
しかしすぐに表情を改め、龍二郎は厳しい表情に戻って怜を見下ろした。
「今からお前をマンションまで送っていくが、その前に片づけなきゃならねぇことがある。俺が戻るまで、お前はここで待ってろ」
龍二郎の言葉に、怜は黙って首を縦に振った。
「 ―― だがいいか、俺が戻るまでは例え何があろうと、ここから一歩も動くんじゃねぇ。分かったな?」
続く龍二郎のその言葉にも、怜は大人しく頷く。
言葉はなかったが怜のはっきりとした返答を見た龍二郎はそのまま踵を返し、足早に部屋を出て行った。
音を立ててドアが閉まるのと同時に一気に緊張が解け、怜は崩れるように傍らのソファに腰を下ろす。
そして弱々しいため息と共に、力なく両手で顔を覆った。
龍二郎がああ言ったからには、閉ざされたドアが再び開くのは龍二郎が戻ってきた際になるだろう、と怜は思っていた。
だがその予測は外れ、龍二郎が出て行ってからそう時をおかずにドアがノックされた。
開かれたドアから入ってきたのは、怜の知らない男であった。
なんとなく身構えるような素振りを見せる怜を見て、部屋に入ってきた男は、
「俺は及川ってもんだ。龍二郎と同じく、ここの若頭をやってる ―― 名前くらいは聞いているんじゃないのか」
と、言って、少し笑った。
「・・・あ、はい、お名前だけは以前から・・・、初めまして、葛原です」
立ち上がって怜は言い、頭を下げる。
その姿を見て及川は更に笑い、笑いながら怜に再びソファに腰を下ろすようにと促す。
そして自分もその向かいに座った及川はそれから暫く、値踏みするような視線で怜を眺めていた。
「 ―― 君とは一度、会ってみたいと思っていた」
と、やがて、及川は静かな口調で言った。
「君が勤めている大久保の会計事務所、あそこは俺のシマでね。実は1年ほど前に龍二郎から、君のこととその身辺を気をつけて見ておいて欲しいと頼まれていた」
「・・・“見る”・・・?」
意味が分からずに首を傾げ、怜は言った。
「そう、その近辺で何か妙な気配がないか、変な騒動に巻き込まれそうな雰囲気はないか ―― 君のことが心配だったんだろう。
俺も龍二郎をもう何年も見ているが、あいつが他人のことを人に・・・特に同業者に頼むなんてのは、考えられないことだったからな。それほどご執心な人物というのにずっと、興味があった。で、今日実際に会ってみて、納得したよ。ありとあらゆる意味でね」
「・・・、はぁ、・・・」
目の前にいる及川という男が何を言おうとしているのか全く掴めず、怜は曖昧に頷く。
及川は微妙な微笑みを口元に浮かべたまま、続ける。
「この世界にいる人間には、絶対的とも言える共通点がある。それは帰るところがない、という点だ。世の中のどこにも、帰るところがない。俺もそうだし、龍二郎もそうだし、君が今日会った、五木もそうだし ―― 殆どの人間がそうだ。だが、君は違う」
きっぱりと、及川は言った。
「言うまでもなく今回のこの一件で、龍二郎も考えるだろうが ―― 君ももうそろそろ、自分の所属するべき場所に戻る頃合いなんじゃないかと思う」
「・・・、でも・・・ ―― 」
「俺は、そう思う」
及川はじっと怜を見据えながら静かに、しかしきっぱりと言い切った。
そしてそれから及川はゆっくりと立ち上がり、部屋を出てドアを閉めた。
怜を部屋に残して廊下に出た龍二郎は、まっすぐに五木がいつもいる部屋へと向かった。
開いていたドアに龍二郎の姿が見えた瞬間、五木はニヤリとその顔に妙な笑みを浮かべた。
「仕事、夜までかかるんじゃなかったのか?」
と、五木は訊いた。
「 ―― 勝手なことをされては困りますね」
と、龍二郎は五木の質問を無視して言った。
「勝手なこと?なんだ?」
と、五木は白々しく驚いて見せながら、訊いた。
「俺の関係者に手を出したことですよ、むろん」
と、龍二郎は平坦な声で答えた。
「・・・なるほど」
五木は顔に浮かべたままの笑いを深めて、言う。
「それでこんなに急いで帰ってきた訳か?何が起きようと何をされようと顔色一つ変えることのなかったお前が、そこまで焦るとはね・・・例の噂もまんざら嘘じゃないってことか」
「解釈はどうとでも、お好きなように」
表情ひとつ変えることなく、龍二郎は言った。
「だがこれだけははっきりと言っておきます。今後彼には一切手を出さないで頂く ―― 再びこんな真似をするのなら、俺にも考えがある」
その龍二郎の脅すような言い方を聞いて、五木はすっと両目を眇めた。
極道の世界で格上の者にこんな物言いをすることがタブーであることは、龍二郎も分かっているはずだった。
鼻で笑ってバカにしてやろうか、それとも怒鳴ってやろうか ―― 逡巡した五木だったが、この問題に突っかかるのは得策でないことを悟る。
揺るぎなく自分を見下ろす龍二郎の目つきが尋常でないのを、察したのだ。
「 ―― 分かった、分かった。
今後二度と、てめぇのイロには手を出さねぇよ」
と、五木は言った。
それは殊更に龍二郎を軽蔑し、挑発するような声だった。
が、それに対しても龍二郎は表情を変えず、五木はつまらなそうにため息をつく。
「んで?大宮へは、誰が車の運転をするんだ?」
と、五木は訊いた。
「・・・安藤に送らせますよ」
と、龍二郎は自分の後ろに立っている安藤を顎でさして、答えた。
「五木さん、車の用意は出来ております。どうぞ」
と、安藤が一歩前に出て、言った。
何とか穏便に事が収束しそうな気配にほっとしつつも、今はなるべく早く2人を引き離した方がいいと考えた安藤が、足早に五木を車へと案内してゆく。
五木を乗せた車が事務所を後にするのを見送ったところで龍二郎はようやく、厳しく引き締めていた表情を微かに緩めた。